②1983年卒業(第8期生)秋田赤十字病院 健康部・予防接種センター長 遠田耕平先生

1983年卒業(第8期生)秋田赤十字病院 健康部・予防接種センター長 遠田耕平先生

遠田耕平先生

今回は、秋田大学大学院医学系研究科/医学部を1983年に卒業(第8期生)し、現在は秋田赤十字病院の健康部・予防接種センター長の遠田耕平先生を紹介いたします。

遠田先生は、1993年からWHO(世界保健機関)の予防接種担当医務官として、ベトナム、インド、カンボジア、フィリピン等のアジア各国で定期予防接種の改善、ポリオ(急性灰白髄炎)根絶、麻疹、風疹、先天性風疹症候群、B型肝炎、新生児破傷風、日本脳炎、ジフテリアなどのワクチン接種対策や感染症対策事業の第一線で活躍され、WHOを定年退官されて2018年帰国後は、現職の秋田赤十字病院健康部・予防接種センター長として引き続きご活躍されております。

以下は、遠田先生の活躍をまとめた「本道第34号」寄稿のからの抜粋です。(一部今回のホームページ掲載用に内容改変しております。)

○海外赴任に至るまで

都立戸山高校を卒業して2年浪人し、やっと秋田大学の医学部医学科に入学した。ところが、在学中に大学を抜け出しカンボジア難民キャンプに行くや、すっかりアジアに一目ぼれ。ボクは早く外科医になってアジアで働きたいの一心となった。1983年に医学科を卒業した後は消化器外科にて研修に従事し、その後当時の恩師の薦めで大学の病理学教室で助手として研究生活に没頭し、博士号を取得しました。その後は、周りに支えられながら3人の子供と女房を連れてロンドン大学に留学し熱帯医学を学び直し、1991年にはロンドン大学で熱帯医学の修士号を取得します。一方で、途上国へと思いのたけは募れども、仕事が見つけられずに帰国。再び大学のお世話になります。それから2年してなんとかWHOの医務官の職を得て30半ばで初めて家族を連れてベトナムに赴任することになりました。つまり、本当に怖いけど本当に優しかった当時の秋田大学の教授やスタッフたちに見守られながら僕は育ち、きちんと日本から脱線して夢見た途上国に巣立っていったということです。

それから30年間、臨床を離れ、予防接種の分野でWHO医務官としてベトナム、インド、カンボジア、フィリピン等のアジアの国々で暮らします。現地の行政官たちと大河を渡り、山河を超え、地雷原を渡り、紛争地に入り、国境をまたいで現場を走り回るそのインディージョーンズ?さながらの壮絶な冒険の話はまた別の機会で。。。今回は天然痘根絶の成功で勢いづいたWHOが第2の根絶目標に決めたポリオ根絶対策と僕の20年間の現場。その泥にまみれた一部をご紹介し、ウイルス根絶計画の光と影を感じていただければ幸いです。

○ポリオ根絶計画の始まり

◆ポリオウイルスとは?

ウイルスの根絶には3つの必須条件があります。
1.人間にしか感染しない病気であること。
2.目に見える急性の感染症であること。
3.優れた質のいいワクチンがあること、です。
が、ポリオはここで、すでに影を落としています。ポリオウイルスは腸管のエンテロウイルスの一つ。腸管上皮で増殖し、便で排出され、糞口感染で広がる。1型、2型、3型の異なる近縁のウイルスが存在して、そのそれぞれが流行する。いずれもリンパと血流に乗って脊髄の前核まで到達し運動神経核のリセプターにくっついて運動神経のみを破壊する。すると発熱の数日以内に急に筋肉がだらんと動かなくなるマヒ(急性弛緩性麻痺)を起こし、四肢、体幹に生涯マヒが残り続けることになる。ただし、この神経麻痺を起こす子供は200~300人に一人で、残りの人は軽い風邪症状と不顕性感染で終わります。そのことは幸いでもある一方根絶の観点から言うと症状発現がほぼ100%の天然痘や、麻疹等のウイルスと違って、伝播しているウイルスの姿が見えない。患者を探し出していくサーベイランスは困難を極める。患者を一人見つけてもそれは氷山の一角で、逆に氷山の一角を見つけ出せないなら、とんでもない数の感染の広がりを見逃す可能性があるということになるのです。

◆ポリオワクチンの登場

1950年になると、ポリオはこんな難しさを持つ感染症でありながら、感染対策の希望はその優れた経口の弱毒生ワクチンが登場したことでした。1950年代にユダヤ系アメリカ人のアルバートセービン博士が9000頭のサルの腎臓の細胞を使って1型、2型、3型の3種類のポリオウイルスをそれぞれ継代してそれぞれの弱毒株をついに見つけ出し、3つを混合した経口生ワクチンを作り出しました。これよりも少し前に同じアメリカ人のジョナスソーク博士がホルマリンで不活化した注射のワクチンを作っていたのですが、腸管の免疫ができないために流行が止まらない。一方セービンの経口生ワクチンは当時のソ連で大規模の臨床試験がされ、流行が止まります。実はちょうど1959年から1960年に日本でも戦後最大のポリオ流行が起きて5000人以上の子供がマヒになります。セービンの生ワクチンの効果を聞きつけた日本の母親たちは割烹着を着て当時の厚生省の廊下に徹夜で座り込み、ワクチンの緊急輸入を古井厚生大臣に迫るのです。当時の医学界は慎重でこの新しい生ワクチンを承認しませんでしたが、古井大臣はその未承認ワクチンを1000万ドース緊急輸入するという大英断をします。その効果は絶大なもので、ポリオはその後激減します。ワクチンキャンペーンとその後の春秋年2回の定期接種で、日本のポリオは1980年を最後に消滅します。

1960年代から1970年代にかけてセービンの経口ポリオ生ワクチンが世界中の先進国で使われ、欧米各国は日本と同様に1980年代にはポリオに終止符を打ちます。ところが世界の人口の2/3を占める途上国では1980年代になっても毎年数十万人の子供たちがポリオで生涯のマヒを抱え、苦しんでいました。その頃東南アジアを歩き始めた僕が街頭で必ず体験するのが、食堂に入ると汚い床を這って、いざって、僕の脚にすり寄って物乞いをするポリオの子供や大人たちでした。そんな状況の中でWHOのアメリカ支部(PAHO)が1980年代にいち早くブラジルを中心とする中南米で経口生ワクチンの一斉キャンペーンを実施し、ワクチンでポリオの根絶に成功します。天然痘撲滅に勢いづいていたWHOは世界のポリオ根絶に動きます。1988年のWHOの世界保健会議で世界のポリオ根絶計画が採択されます。実は中南米のポリオ根絶が成功したのは天然痘撲滅でアフリカやインド、バングラディシュを走り回ったWHOの猛者たちが主導したからでした。そして彼らは僕のフィールドの師だったのです。WHOで天然痘根絶部長を務めた蟻田功先生の薫陶を受けて、1989年に僕は地球の反対側のブラジルまで行ってポリオ根絶の現場を体験する機会を得ます。そこから僕のポリオ根絶への旅が本格的に始まります。

○ベトナムに赴任

ワクチン

本格的に僕が現場でポリオに取り組んだのは1992年の暮れ、36歳の時。小学校低学年の3人の子供と女房を連れ、当時やっと門戸を開き始めたベトナム南部のサイゴン(ホーチミン市)に赴任した時からでした。そこは東南アジアでも最もポリオの流行が残る場所でしたが、臨床医だった僕に何ができるのか?公衆衛生って一体何なのか。一体何から始めたらいいのか?頼れる人もいない、たった一人で保健省のパスツール研究所に入ると机もない、椅子もない。そもそも言葉が通じない。ベトナム語の辞書を片手に英語を混ぜながら手振り身振りの生活が何か月も続きます。変なベトナム語を話す変な日本人と出会ったベトナム人たちと僕との珍道中が始まります。それでもベトナムの人たちは優しかったのです。僕にできることはとにかく地方に出て、病院を歩いて患者を探すこと。便検体を集めて、ウイルスの分離のできるラボを作り、確定診断する。ワクチンの全国キャンペーンを準備して実施を手伝う、またフィールドに患者を探しに行く。愚直に、実に愚直に、ベトナムの保健省のスタッフに助けられながら共にフィールドを歩き続けます。自分のやり方がわかるまで。今思えば、がむしゃらに歩く僕を見守ってくれたベトナムのスタッフはすごいの一言。今でも時々思い出す言葉があります。ある県の衛生局長が足元に這ってくるポリオの物乞いを見ながら僕に向かって言います。「トーダ、お前は頑張っているけど、ポリオがなくなるわけないよ。もしなくなったら、お前の銅像を建ててやるよ。」と。それくらいポリオの患者がいたのです。僕と昼夜フィールドを歩いた保健省のスタッフは「トーダは外国人なのに、なんでそんなに一生懸命にベトナムのために地方を回るのかわからない。」と。自分でもわからなかった。それしか不器用な僕にできることがなかったのです。まるで何かにとらわれたように。ふとこのままこの地で死んでもいいんだという思いが頭をかすめた頃、ベトナムのポリオの伝搬が止まります。貧しさと様々な困難の中でやり遂げたベトナムの人たちに脱帽。もちろんトーダの銅像は建っていません。

○長い旅の途中

ベトナムのあともインド、カンボジア、フィリピンと、僕の現場を放浪する旅はまだまだ続いていくのですが、今回はスペースの都合もありそれは別の機会で。。。

40年前、秋田大学の一学生が日本という重い扉を開けてみたら外の世界は意外にも優しい人たちで溢れていたのです。僕は希望で胸を一杯に膨らませて、家族と共に外に飛び出し、情熱のままに走り続けた。そして本当に数えきれないほどのたくさんの優しい人たちに助けられてきた。これからどこへ行くんだろうか。やっぱりまだ「長い旅の途中」。肉体が滅びて、心がなくなっても、この広い空の下で土に帰る。人生はあっという間だけど、自然はちゃんとそこにある。そして季節を刻む。あの田圃の畔に咲く雑草の小さな花の傍らでも。

いずれにせよ今、僕が秋田にいること、豊かな自然と優しい人たちが一杯いるこの秋田にいることが、僕の旅の途中のとても大事な、とても自然な、とてもちゃんと用意された出来事なのではないかと思っているのです。僕の放浪の旅は今のところまだ続きそうです。

遠田先生の長年のご活躍は、今回の限られたスペースではご紹介しきれませんが、先生のご活躍は『WHO医師のアジア放浪記』として本にまとめられ、発行されております。

WHO医師のアジア放浪記

遠田先生からは今回「多くの秋田大学医学部の同窓生に読んでいただけるならこれ以上の幸せはありません。」とお話をいただいております。ぜひ手に取っていただき、遠田先生の放浪の旅を一緒に追ってみてください!

各種証明書の申込方法及び発行について

各種証明書(卒業・修了証明書、成績証明書等)の発行は次の方法により、発行される証明書の対象となる卒業生・修了生本人が申し込んでください。